【雑記】常識って何ぞや

今日の新聞で面白い記事があったのでご紹介。

 

テーマは”現代人は常識という言葉の意味をはき違えている”というもの。

 

「常識に沿った行動をしろ」、「常識はずれなやつだ」、「常識がない」、「非常識だ」。常識はこのようにしばしば否定的に使われている。

 

「社会の常識だ」、「社会人の常識」と言われると私はかなり息苦しく感じる。

 

一方、以前、記事に書いたようにcritical thinking 、常識を疑えというのもよく耳にするフレーズ。大学の先生なんかは大好きですよね。

 

こういた場合の”常識”ということばは社会通念的で、固定観念に近い意味合いだろう。だから、かなり一方的なところがある。

 

常識を捨てろとか、ぞれが社会人の常識だとか言われても違和感を感じる人はいないかもしれない。

 

記事によると、常識という言葉はcommon sense の訳語として登場し、ロブシャイド「英華辞典」(1886)では「見識」、「明理」「達理」と語訳が並べられていたところ、井上哲次郎らの、「哲学字彙」(1881)が常識と定めたとのこと。

commonに常、senseに識をあてたのだろう。

 

また、常や識は、”仏教用語”を意識していたのではと推察している。

 

仏教における識は「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」、いわゆる五感+意識をまとめて六識と呼ぶように、知覚作用ないし心の動きを示す。

 

これは、過去の哲学者がsenseを心の動きととらえていたことに他ならない。あくまでも本来のcommon sense の訳に忠実に従っていたのである。

 

一方、近代日本の一般社会で「常識」が使われるようになると途端に意味が変わってくる。「識」はむしろ知識として受け取られふるまうようになったのである。

 

common sense の原義は”人々が共有する判断や認識”のことであって、哲学字彙もそれに沿っていたのだが図らずも意味がずれて広まり常識はcommon senseから離れていった。

 

また、哲学者中村雄二郎氏はcommon sense には社会における共通の判断力のほかに諸感覚に通ずる感覚、すなわち「共感覚」という意味の系譜があることをアリストテレスにさかのぼって論じたとある。

 

そしてこの二つは別々のものではなく、ある社会で人々が共通に持つ判断力は、それぞれの人が持つ共通の全体的な感覚の力の表れだと説明している。

 

言い換えれば、人を人として成り立たせているものが社会を社会として成り立たせているのであり、その根底に「共通感覚」(常識)があるということである。

 

そして、このような「共通感覚」としての”常識”は、人を判定する材料にしたりむやみに疑ったりする対象ではないと結論付けている。

 

私たちが共有する常識(共通感覚)とは、では何なのだろう考えると、筆者が与えてくれた思索はますます深みを与えてくれる。